100年前の社会と弁護士

友新会が誕生した明治32(1899)年当時、日本は漸く幕末来の西欧列強との間の不平等条約を改正し「眠れる獅子」清国との戦争に勝利し、その勢いで更に大国ロシアとの戦を迎えようとしていた。

列強は、アフリカ大陸を分割し、アジアへと勢力を伸ばし、中国各地には租借地を設けていたが、我が日本も遅ればせながら朝鮮半島から中国大陸へと進出していこうとしていた。

国内では、最初の労働組合である労働組合期成会が結成され、明治31(1898)年には、これ又最初の政党内閣として第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立した。

この外、明治30(1897)年八幡製鉄所の設立、明治31(1898)年民法公布、明治33(1900)年選挙法の改正等々、日本が様々な矛盾を抱えながらも近代国家としての形を整え、大きく新しい世紀への歩みを始めようとしていた時でもあった。

文化面でも、樋口一葉が「にごりえ」「やたけくらべ」を、島崎藤村が「若菜集」で瑞々しい作品を発表するなど、ここでも新しい時代を感じさせていた。

その少し前、明治26(1893)年には弁護士法(旧々弁護士法)が制定され、この時、弁護士が代言人に代わって登場することになった。

発足当初と異なり旧々弁護士法制定のころは、既に代言人は一定の要件を必要とする免許制であり検察官(司法省)の指揮監督の下、強制加入の組合を結成していたが、公事師といわれたころからの悪評は消えず、「三百(代言)」 との蔑称で呼ばれることもあったという。

当時の記事によると、弁護士という人種は監獄に客引きを出して、無理やりに客をつかまえたり、あるいは、法廷で勝つことだけが優れた弁護士だと考え、事件の性質や権利の有無について色々考えるより、どのようにすれば(無理な事件でも)相手に勝てるか許りを考えている類であり、このことは弁護士自らも世間も理解している、だから、その品性が低落するのも当たり前だと酷評されている状況だった。

いずれにしても、旧々弁護士法では、司法大臣の定める試験に合格した者、帝国大学法学部卒業生等が(後者については無試験)弁護士の資格を取得できることになった。