戦後の弁護士・弁護士会・友新会

日本の主要都市の大半が、もちろん大阪も瓦礫と化した焼土の中で、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降服した。

進駐軍という名の占領軍が支配する中で日本国憲法が公布され施行された。憲法改正に関連して司法制度の改革も課題となりその中で弁護士法の改正も、弁護士の側からの強い要望もあってなされることになった。

裁判所法・検察庁法の改正に遅れること2年余り、昭和24(1949)年5月現行弁護士法が成立したのである。

(1)日本弁護士連合会の設立

新たな弁護士法の施行に備え、全国の弁護士会の間で日本弁護士連合会の設立準備がなされていた。

昭和24(1949)年7月、東京で全国弁護士会総会が開催され、そこで日本弁護士連合会の設立・日本弁護士連合会会則制定等を決議した。この時、友新会の白井誠・岡本尚一らは大阪代表の一員として右決議に参加した。白井らの話によると決議の前夜、宿舎ではほとんど徹夜で総会の権限・代議員会の構成・決議方法などについて議論をしていたということで(大弁会報128号)、当時の熱気が伝わってくる。日本弁護士連合会はこの後同年8月に第1回代議員会を開催し初代の会長など役員を選任し、同じく10月16日第1回総会(臨時総会)を開催したのである。

(2)大阪弁護士会の状況

戦争末期、大阪弁護士会は空襲などの影響もあり、9月22日の総会には会長中務平吉外21人しか出席者がなかったという。この総会では「戦時対策委員会」の廃止と「時局対策委員会」の設置を決めたが、その後の決議で後者は「司法改革委員会」へと名称を変えた。その後、大阪弁護士会でも憲法改正・司法制度の改革の流れに沿った規定等の改変・委員会活動の再開等を実施し、昭和24(1949)年6月30日の定時総会で新弁護士法の施行に備えた会則を定めたのである。

この当時、大阪弁護士会の活動として著名な事件に押収砂糖不当処分事件がある。この事件は終戦時、押収物として保管されていた砂糖を大阪検事局が処分し、検事・判事・事務官・書記官らで分配した、という時局柄というか時代を反映した事件であった。大阪弁護士会会員の一人がこれを聞きつけて問題視し、弁護士会では臨時総会を開催し問題を提起したのである。大阪弁護士会のこのような行動に力を得たものか、「お上」のやることと見て見ぬふりをしていた大新聞も漸くこの問題を後追いすることになった。

(3)戦後の事件と会員戦犯の弁護

戦前、大阪の弁護士の大半は事務所を兼ねた自宅であったが、焼夷弾や爆弾でこれらの自宅は瓦礫と化していた。バラックや焼跡の立ち並ぶ大阪での事件は闇市での争いから生じた傷害事件や相変わらぬ統制法違反事件、それに焼跡の明渡請求等であった。

戦争中からの係属事件では訴訟記録の復元に苦労したともいう。

敗戦と同時に海外からは軍人・軍属等が続々と帰国し、大阪弁護士会にも大陸や台湾で法務官等をしていた人たちが帰国して登録したり、逆に弁護士から裁判官等に任官したりする人もいた。東京始め各地では占領軍によるA・B・C級の戦犯の裁判が始まったが、大阪からもこれら戦犯の弁護をする人が数多くあった。

友新会でも会長中務の推薦などで岡本尚一・澤邉金三郎らが就任し米国人弁護士と共同して戦犯の弁護にあたった。大弁百年史では、このような弁護活動の中で弁護人たちがアメリカ流の当事者主義的訴訟構造を体得しその結果が後に大阪方式と呼ばれた大阪独特の審理方法の確立に大きな影響を与えたと評価している。


法服のこと

法服のデザインは旧弁護士法制定当時、東京美術学校校長の黒川真頼氏が考案したものとされ、弁護士は白、検察官は赤、裁判官は紫という色分けであった。戦後法服が廃止されるまでは大阪弁護士会の控室には法服箱が置かれており、弁護士は弁護士会控室に寄って置いている自分の法服を着て法廷に出ていた。地方へ出張すると弁護士会に備え付けの法服を貸してもらえたが、それがボロボロで臭いがするようなものや、法冠も型がくずれて頭の上に乗らないものも多く、それでも法服を着用して法廷に出るのがきまりであった。

夏用冬用の2着の法服を持つ弁護士が多かったが、法服が割合に高価なものであったためか1着ですごした弁護士もいた。

戦後間もなくして法服は廃止されバッジへと変わったが、法服廃止の経過は戦災で焼かれ法服を持たない弁護士が多かったことや、物資統制のなか法服用生地の調達が困難であったという実際上の必要から出て、戦後の民主主義化の傾向とともにアメリカ式弁護方式へと移行したことによるものといわれている。

[大弁会報159・5、120・16より]