陪審員制度の導入

司法制度の民主化は、判検事・弁護士の資格(試験)の統一という形で一応の前進をみたが、更に弁護士たちが取り組んだのは、陪審制度の導入であった。

大正9(1920)年政府は、陪審制導入の可否等を日本弁護士協会に諮問したが、これを受けて大阪弁護士会ではその可否を巡って激しい議論が始まった。友新会では白川朋吉・武内作平らが賛成を、足立進三郎らが反対の意見をとなえ、総会では、導入反対の意見が多数を占めた。「大弁百年史」は、賛成者反対者とも、刑事訴訟法の改正により刑事裁判における人権保障を確保すべし、とする点では両者一致するものの、人と運用の面で工夫・改良すればそれは可能で、陪審制度という未経験の問題多い制度は必要ないとしたのが反対論者であったとまとめている。

いずれにしても弁護士たちが積極的に関わる形で陪審制度は採用され、昭和3(1928)年から実施された。

このころの大阪の弁護士は、事務所と自宅を兼ねる者が多く、書生2~3名、車夫、そして女中さんを抱えていたという。山高帽と紋付き、羽織・袴で鞄を持っている。人力車に乗ったこの姿形だけで弁護士と分かったと伝える。事務所の維持費・生活費は200円もあれば十分で、それを遙かに上回る収入があったはずだともいい、弁護士にとっては、極めて珍しい恵まれた時代だったようである。友新会員を始めとする品位の向上、信頼維持の努力が漸く実り、社会の成熟化に合った時代だったのかもしれない。

友新会員始め大半の弁護士は、朝、裁判所に出廷し、そのあとは、控室で陪審制や社会問題について議論したり、碁を打ったりしていたと思われる。

夜は夜で北や南の新地でそんな議論が続いていたのかもしれない。

大正時代に入ると友新会の会員が大阪弁護士会の会長を務めるようになり(大正7年武内作平・大正9年岸本市太郎・大正11年白川朋吉、更に13年には上村豊など昭和20年までは引き続き2~3年毎に友新会員が会長となる)、友新会あるいはその会員の大阪弁護士会における影響力は絶大といっても良かったはずである。