友新会の誕生

この新しい制度の下で資格を取得した弁護士の中で大阪に住居を有した人たちが中心になって結成したのが我が友新会である。即ち、会員相互が助け合って品位を高めて世間の信用を獲得し、新しい弁護士をつくろうという目的をもって結成されたのである。

明治32(1899)年4月、設立に関わった武内作平・岩崎幸治郎・高窪喜八郎・中井隼太更には内藤正知らがどのような契機・経緯で友新会結成に至ったかは残念ながら不明である。しかし、当時はなおも三百代言と称されたころの悪弊の印象が強く、弁護士会員内外において、品位・信用の向上が強く求められていたこと、政党内閣の成立に伴い、貴族院勢力に対抗するものとして民選議員の発言力が強まりその中に数多くの弁護士が含まれていたこと、更には社会の近代化の中で、矛盾の顕在化や、これらを巡る言論の活発化等々の背景の中で、お互いの友情を深め相互に研鑽しあって高めあい自らの地位向上をはかろうとする組織が必要とされたのではなかろうか。

大阪弁護士史稿によれば、「友新とは新人を友とするの謂われなり」と名称の来歴を紹介し、更に続けて「……会員は少壮気鋭の人多く、行動活発にして、法曹界のことのみならず、往々時事問題をとらえ演説会を開きて意見を発表したれば、名声次第に加われり」とある。新制度の下で誕生した友新会の先輩たちの意気盛んで颯爽とした姿が偲ばれる文章である。

確かに「名声次第に加われり」で、その後白川朋吉・竹田廣助・石黒行平・安藤柱・上村豊・中村儀蔵・板野友造・岸本市太郎等々会員が増大しつづけたのである。

会員たちは、大阪弁護士会会員として、数多くの意見書等の作成発表に関与した他、やがて会長として弁護士会運営を担った人も多く、同時に市議会、帝国議会等で活躍をした者も多かった。

又結成の翌々年(明治34年)の正月には、会員有志で大阪朝日新聞に、弁護士として初めて連名広告を出してアピールするなど、行動は文字どおり活発だったのである。

友新会は、このようにして誕生したが、明治40(1907)年には会則を施行して組織の体制を整え、昭和6(1931)年には会員の資格制限を撤廃し、更に会員の枠を広げる努力をしている。

大阪弁護士会では、明治の昔から会長等役員選出を巡って激しい選挙が行われてきたという。

友新会がいつごろから、そしてどのようにこの選挙に関わり出したかはよく判らない。会長としては大正に入って友新会員が就任しているものの、その選出がどのようになされたかも判らない。史稿及びこれをうけた大弁百年史では、昭和6年、このころから友新会が交渉団体として役員選出に関わり出したと述べている。従って遅くともこのころには現在の会派としての友新会に近い機能・組織が整えられていたといえるであろう。

武内作平(近畿弁護士評伝より)

明治30(1897)年試験に合格し、開業した翌年に友新会を結成し、大正7(1918)年友新会員としてはおそらく初めて大阪弁護士会長に就任した。その後、内閣法制局長官にも任じられている。

評伝によると、武内は、その後の経歴が示すとおり、社会的問題、政治問題にも関心が深く、大阪桃山病院で紛議が発生した際には、事案の真相を究明するため調査の組織を自ら結成し(大阪市公会)活発な活動を続けていたという。

中井隼太(近畿弁護士評伝より)

文学的才能に秀でていたという。社会問題に関心を持っていたとも伝わる。ある人に応えて以下の詩。

御所望により小生の経歴申述候

氏名年齢は 中井隼太 10年3月生

身分職業は 無垢の平民 一貫の書生

住所は 兄の所知

原籍及び出生地 御手柄に残し置申候

前科は勿論、位記、勲章、従軍記章、恩給、学士、博士の稱号、卒業証書を有するものなし

幼時は非凡明治24年5月29日美事小学卒業

爾来10年

15から酒をのみ出て今日の月 仲秋

高窪喜八郎(日本弁護士総覧より)

明治31(1898)年弁護士となってその志を実現した立志伝中の人物であった。

高窪は、明治42年、東洋汽船会社の招聘に応じて同社に入社し、文書課長の任務についた。その敏腕ぶりは社内でも評判であったが、まだ在職期間を残したまま翻意して辞職し、明治44年再び弁護士会に戻った。事件には心を込めて熱心に当たり、信望の厚い人物となった。

総覧によると高窪は、多年にわたる苦学、苦行により社会全般の事情に精通し、特に商事には独特の手腕を持ち、会社、銀行の顧問先はいちいち数えることもできないほどであったという。

なお、「判例学説総覧」の代表編集者として著名である。

内藤正知(近畿弁護士評伝より)

明治31(1898)年試験に合格し翌32年2月大阪に来たりて事務所を設けた。以降、専ら力をその職務につくし、世間の信用も日増しに厚くなり、今や23会社の法律顧問を嘱せられその名声は盛んであった。

評伝によると内藤は武内作平氏等の率先企画したる友新会に加入して、共に法曹界の改善に資するところ少なからず、その他公共団体憲政本党に加盟するなどまさに大いに為すことあらんとするもののようであったという。

平田譲衛(近畿弁護士評伝より)

評伝によると平田は、近畿の幾百の弁護士の中で、意気と節操があり、品位があり、大きな希望があり、学識があり、経験があって、人の中心になって全体を動かしていき、数年もたたないうちに法曹界における覇権をまさに握るであろうほどの勢いのある人物であったという。

慶応義塾英語科に入り数年の間学問に研鑽し、その後帝国大学法科に入り、英法科を専攻し、明治21年7月、卒業し法学士の称号を得た。

明治21年から27年までの間、学習院で契約法、法理学の嘱託教授として、また21年から30年までの間、東京専門学校、日本法律学校で債権編の講師をしてその名を轟かせた。

丸山昔生(近畿弁護士評伝より)

明治31(1898)年試験に合格し、教育者の職を転じて松村敏夫氏と合同訴訟事務に携わった。

評伝によれば、丸山は淡白な性格で一見書生のようで、松村氏の垢抜けている姿とお互いが「相待つのも」また奇妙なものだとある。また、丸山は普段から文学を好み、詩歌、俳諧のいずれも大変得意であった。

下に丸山の作品を記そう。

「書剣放浪薄世縁。東西南北廿余年。如今剰得風流癖。酔月吟花又座禅。」

守安富太郎(近畿弁護士評伝より)

明治31(1898)年試験に合格し、翌年2月に事務所を開設した。

守安は単に法律を学んだだけではなく、在学中には政治学を専攻し、新聞社で経済記事を書いていたことからその学識は普通の弁護士とは比べることができないほどであったという。

評伝によれば、弁護士試験科目改正後の合格者として、武内作平らと友新会を組織し、これにより法曹界の改善発達を大いに計ろうとしているとある。