名簿の整理と三百代言

大阪弁護士会の会員数は、明治27(1894)年に113名、友新会誕生の明治32(1899)年には120名余、それが昭和に入ると700名を超える人数になっていた。

旧々弁護士法下では弁護士の職域は法廷活動に限定されていたこともあったためか、弁護士の資格をもたずに訴訟事件等に関与する者の人数は当時全国で3万人にも及び正規の弁護士の6倍を超えていた。旧々法の下では弁護士は出張所を設けることが可能で、地裁支部等におかれた出張所では事件の周施屋や事務所の職員らが待機し正規の弁護士の名前などを使って債権取立などをしていたという。又、弁護士がこれら「三百」に使用されていた例も多かったとも伝えられる。

当初、弁護士会では訴訟紹介者名簿を作成し、これらの「三百」を把握利用していたが、旧弁護士法と同時に、「法律事務取扱の取締に関する法律」が制定され、その後は「非弁名簿」として「三百」は取締の対象に入ることになったのである。

白井誠は会報128号の座談会でこの頃のことを次のように回顧している。「大正15年に大阪弁護士会の会則改正を全面的に(やり)……風紀規程が強化された。……その時に始めて報酬規定(も)おかれた。……(それを受けて)昭和2年に細則(おそらく全国で始めての)が置かれた。(又、)昭和11年(旧)弁護士法の施行に(際して)弁護士名簿を整理した。(更に、この時)無資力者に対する法律相談・訴訟扶助の要請を受けて、会則で一章を設けて法律相談並びに訴訟扶助という余章を設けた。……そして無料法律相談を開始した(これは弁護士法の要請を実現したもの)。だが、弁護士会の予算を1000円つけたが、実際上は500円に削られた。弁護士会の使命達成の上からいっても法律思想の普及からいっても公共性からいっても(予算化は)当然のことだと私は思うのだが。

弁護士(会)が易々と法律相談をやると事務所(で行う)鑑定というものに影響する、鑑定価値というものが一般に認識されなくなる(などの)反対意見……削減説があった」。

以上のような弁護士・弁護士会の活動や非弁取締の活動が弁護士・弁護士会の信用・地位の向上を獲得する要因であったと思われるが、「三百に使われる弁護士」にしても、又弁護士会の行う相談業務等の法律事務処理についての議論にしても、昔も現在も変わりがないのはどういうことであろうか。