講和条約と復興

(1)社会情勢

弁護士法が成立したころ、日本国内では下山事件・松川事件と暗い事件が続き、大陸では中華人民共和国が成立しアメリカを中心とする自由主義陣営とソ連を旗頭とする社会主義陣営が真っ向から対立する、その狭間に日本があるという地理的・政治的状況であった。

占領軍の実質的な中心であるアメリカは日本占領の方針を反共政策へと転換しレッドパージが始まった。

昭和25(1950)年朝鮮戦争の勃発後、警察予備隊が設置され4年後にはこれが自衛隊へと発展・拡充していった。

朝鮮戦争は、戦後の不況に苦しむ日本に軍需景気をもたらし、これをきっかけに大きく経済復興がすすんだ。社会・政治状況の変化を反映したものか、司法界でも最高裁判所の長官に田中耕太郎が就任しその強力なリーダーシップで裁判所ないし司法を社会秩序の維持と法廷秩序の維持を強調する方向づけをしたといわれている。


青木英五郎と冤罪事件

新刑事訴訟法は昭和24(1949)年1月1日に施行されたが、捜査機関の自白に頼る体質は改善されず多くの著名冤罪事件が発生した。

青木英五郎は昭和9年に京都帝国大学法学部を卒業して裁判官となったが、「八海事件」(強盗殺人事件)で、最高裁が、昭和37年に広島高裁の被告人4名の無罪判決を差し戻したことに義憤を感じ、同年7月裁判官を退官して、弁護人となり、昭和43(1968)年10月、第3次上告審で全員無罪の判決を勝ち取った。事件発生から17年有余経過していた。さらに、「仁保事件」(強盗殺人事件)の弁護団長として尽力し、最高裁で、昭和45(1970)年7月に破棄差し戻しさせたうえ、昭和47(1972)年12月に広島高裁で無罪判決を勝ち取った。事件発生から、18年経過していた。

仁保事件に取り組んでいた頃は、事務所経営は全く火の車で、毎月末の支払いにも事欠く始末であったという。「裁判官の戦争責任」「誤判にいたる病-自由心証の主義の病理」「日本の刑事裁判-冤罪を生む構造」その他多くの主として刑事裁判関係の著作を発表し、同時に、わが国での陪審裁判の必要性を強く主張し続けた。明治42年12月9日生、弁護士登録後友新会に入会し、昭和56(1981)年1月3日逝去


(2)岡本尚一と原爆裁判

岡本尚一は、大正14(1925)年に弁護士登録し以後友新会の中心的な人物として活躍していたが、押収砂糖不当処分事件では大弁の司法粛正実行委員長をつとめた。岡本は、先に触れたAB級戦犯の弁護を通して軍事裁判が単なる報復であってはならないこと、従って戦争そのものが必然的にもたらす非道を根本的に廃絶するための歴史的な機会とすべきと考えたということである。そして、その中から米軍の原爆投下が不問に付されることは許し難いと考えるに至り、被爆者や遺族を原告、投下の直接責任者や米国政府を被告としてその不法行為責任を追及できないかと考えるに至った。それができれば被爆者等の救済に有益であるばかりでなく、原爆の使用を禁止すべきであるということを世界の人に訴え、かつ提起自体が原爆問題に関する関心を高めて世界平和に貢献できると考えたというのである(小田成光「鐘鳴りわたれ」、大弁百年史)。

岡本は、このような考えを実行に移しパンフレットを作成するなどして広島・長崎の弁護士に協力するよう申し入れた外、昭和30(1955)年独力で東京・大阪各地方裁判所(大阪訴訟は東京へ移送の上併合審理)に訴訟を提起したのである。

米国政府の代りに日本政府を訴えたのは、以上の理由に加えて日本政府が講和条約で米国に対する請求権を放棄したところをとらえたものである。

岡本自身は提起後間もなく昭和33(1958)年に病没したが、訴訟は協力者によって継続され、その後も続けられたが請求そのものは棄却された。しかし、判決が「原爆投下は無防備都市に対する無差別爆撃であって当時の国際法からみて違法な戦闘行為であり、且つ原子爆弾の非人道性」をいずれも理由中で認め指摘していることから岡本自身の考えが正しいということも実証されたといえよう。

残念ながら、この当時、後日の公害裁判にみられるような弁護団の結成という形での協力体制は弁護士会にも友新会にもできなかった。

しかし、弁護士会館で行われた葬儀では路上にまで参列者があふれたということである(会報136号)。

「夜半に起きて被害者からの文読めば涙ながれて声立てにけり」