戦争の足音

大正末から昭和初頭、政治の世界では政友会と民政党が交互に政権を担当するという「二大政党制」が実現していた。しかし衆議院に対して特権的地位をもつ貴族院・枢密院や元老制により、政党は政治をリードする地位にはなく、又その基盤も主として資本家ないし地主層というところで、国民的基盤に立つとは到底いえないものであった。その上、国家予算の大半を使用していた陸・海軍の存在ないしその意思が政治の動向を大きく左右していた。

このような状況の下で、政党は政権奪取のみに目を奪われ保身と自派の伸長に尽力し、松島遊廓移転事件など、国民の信頼を失ういくつもの事件をひき起こしていた。

政党に対する国民の不信と失望の最中、血盟団事件や昭和7(1932)年の5・15事件で政党政治は終焉を迎えた。普選法による第一回選挙からわずか3年の生命だった。

第一回普通選挙では前回の選挙に比べて4倍の選挙民が投票することになったが、政府は無産政党各派に対して激しい選挙妨害を行ったという。

社会・経済的にみれば「昭和」という時代は経済恐慌から始まり(昭和2年日本金融恐慌、昭和4年ウォール街の大暴落・世界大恐慌)、社会不安が全世界に広まった時代といえるであろう。日本では「大学は出たけれど」(東大卒の就職率が30%だったという)仕事もなく、東北地方では恐慌に凶作が重なり娘の身売りが続出した時代であった。

大恐慌と社会不安からの脱出の一つの方向は右翼のかかげる昭和維新への途であり、もう一つは左翼からの社会革命の方向で、この2つの潮流がぶつかり合うのが昭和初期の状況であった。

このような中で市民は「エロ・グロ・ナンセンス」を求め、芥川龍之介が自殺したり小林多喜二が殺される一方で、ベルリンオリンピックの「前畑ガンバレ」等に熱狂したりしていたのである。

政党は前述のように、もともと市民の支える基盤も弱く、この頃には金権腐敗にまみれ、軍をとめることはおろか、その圧力に簡単に屈し、結局日本の方向は「満州事変(昭和6)年」に始まる大陸侵攻と植民地拡大へと向かい、やがて昭和12(1937)年、日中全面戦争へと突入していったのである。