旧弁護士法

(日本が、そして世界が大戦争への途をつき進んでいたこのころ、弁護士制度も大きく変わった。

昭和初年からの弁護士会の意見を容れる形で昭和8(1933)年弁護士法が公布(旧弁護士法)された。

主要な改正点は (1)業務範囲の拡大(法廷外活動も認める) (2)弁護士試補制の導入 (3)女性に対しても弁0護士資格を認める (4)弁護士会の法人格を認め、従来地方裁判所の検事正の監督下にあったものを司法大臣の監督に委ねる、等々である。

旧弁護士法の下での弁護士試補は、昭和11(1936)年弁護士試補実務修習規則、同考試規則の公布により同年4月から実施された。試補は1年半の期間中無給であり、考試は司法省次官を委員長とする考試委員が行い、弁護士会の要望である会の考試は実現しなかった。

判検事については司法官試補制度が存在し、法曹の養成は二本立てとなったが、司法官試補が1年半の修習中有給であったに対し弁護士試補は無給で、生活ができないために途中で断念する人が続出したという。

又、判検事修習は弁護士試補にはなく、司法官試補は弁護士修習を行わなかった。第1回の弁護士試補はおよそ40人、1年半の期間中、指導弁護士のところで指導を受けたり、会の講議(合同修習)を受けたりしていたという。尚、司法修習委員会にあたる委員会は教導委員会という名前であった。

試補の大半は無給であるためアルバイトをしており、魚の闇をやって摘発された者もいたという。このため、試補制度は廃止せよという意見も発足当初から強かった。

いずれにしても、大阪における試補制度への反対運動は強く、例えば第一期の試補である塩見利夫らは他の試補と共に撤廃運動を開始した。弁護士会に反対することは信義にも反するとして会の直接の抗議、反対行動はせず、弁護士会の総会に反対決議をしてもらうよう働きかけ、その成果をもって当時東京で代議士をしていた一松定吉らに請願したという。この結果、廃止法案が衆議院の段階では可決されるところまできたのだという。当時、弁護士出身の代議士は120人から200人、大勢力を有していたにも拘わらず貴族院のハードルは越えられなかったのであるという(いずれも大弁会報座談会より)。

撤廃運動は実を結ばなかったものの、試補の窮状をみかねた大阪弁護士会は指導弁護士に対して支払っていた修習委託金の一部(一月12円50銭)を弁護士試補に支給することにしたという。


司法官試補制度

司法官試補制度は、弁護士試補制度(昭和12年実施)のかなり前より、裁判官・検察官になる人たちの修習制度として存在した。弁護士は、高文司法試験を合格すれば直ぐになれたが、裁判官・検察官は司法官試補を経ないとなれなかった。

昭和12年頃、高文司法試験を合格する人数が220~230人で司法官試補に採用されるのが115名程度で、採用願を出しても成績の優秀な人だけを採用していた。そのため、成績が足りなくて採用されなかった人などが弁護士になったため、判・検事が弁護士に対する優越感をもつようになった。

昭和12年以降は、司法官試補制度と弁護士試補制度が並存するようになったが、前者は官選弁護人になれたが後者はなれなかったこと、前者は有給、後者は原則無給というような違いがあった。

[大弁会報137・75、132・29より]