大正時代の弁護士

明治26(1893)年制定の旧々弁護士法に対しては弁護士内部からの改正の要求が強く、このような意見を集約するものとして大正12(1923)年高等試験令による司法科試験が実施され、判検事、弁護士の試験が同一となった。

弁護士の数も大正元(1912)年には大阪で131人であったものが大正8(1919)年には259人、更に大正13(1924)年には584人と激増している。弁護士の激増は、弁護士困難時代を現出し、階層分化が生じたといわれている。例えば民事事件では、労働者・小作農民の側に立つ弁護士と、資本家・地主の側に立つ弁護士とに分かれた。

尤も、社会運動に対する刑事弾圧から生じる刑事事件では、両者が共同して権力と闘ったものである。