もはや戦後ではない高度成長の時代へ

(1)時代背景と弁護士

朝鮮戦争で加速した日本経済はその後いくつかの曲折を経て昭和年代後半に入り急激に拡大充実した。

昭和35(1960)年三井・三池争議と第一次安保闘争を経て戦後20年、日本は昭和39(1964)年の東京オリンピックを迎えた。高速道路が走り東京・大阪を新幹線が3時間で走っていた。

所得倍増、3C時代といわれたように国民生活も豊かになり狭い国土と道路に自動車が狂ったように走り回る時代になった。

昭和30(1955)年には自動車損害賠償保障法が公布され、その後の交通事故の激増に伴って交通事故訴訟が飛躍的に増加するきっかけとなったと思われる。

自動車の増加とそれにともなう交通事故の激増は全国民を加害者と被害者に巻き込み、スピード違反等の行為によって全ての国民が犯罪者となるような思いにもさせた、そんな時代になったのである。

いずれにしても、交通事件はむち打ち症や損害の算定など事実的にも法的にも数多くの問題を生み出し、交通事故処理センターや新しい訴状の形態など紛争処理の新しい方法や手続も生み出された。特に大阪では、弁護士会と裁判所、それに検察庁が協力して、定型的な訴状の作成あるいは不起訴記録の閲覧等法曹三者の協力の下に、激増した紛争処理にあたっていたことが注目される。

昭和40年代に入ると、大阪では万国博に関係する土地ブーム・建設ブームが生じ大阪圏を中心に土地取引が活発になりこれらを巡る紛争も激増した。

交通事故訴訟、更には土地ブーム、これらによる弁護士の収入の増加、生活の安定が大阪弁護士会の会員が当時あるいはその後続けられた数多くの弁護団活動の根源の一つとなったことは疑いない。しかし、このような恵まれた時代も昭和48(1973)年の石油ショックの発生で一つの区切りを迎えたのである。