普選運動と治安維持法

米騒動をきっかけとして、農民運動や労働運動などの様々な社会運動が急速に発展した。これらの運動は政治的には普通選挙の実現を目指す普選運動として収斂した。

一方、政府は上記のような種々の社会運動を規制、取り締まる目的で従来の治安警察法にかえ、治安維持法を制定した。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、その後の混乱を防ぎ、回復するためとして東京・横浜に戒厳令が布かれた。そして、大正13(1924)年に国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、又は情を知りて之に加入したる者やその未遂罪、更には目的実行のために協議をすることまで処罰する内容を有する治安維持法が制定・公布された(大正14年施行)。この治安維持法と全く抱き合わせの関係で、普通選挙法(成人男子に対して平等に選挙権を与える)が成立・公布(大正14年5月)されている。

友新会の内藤正剛・石黒行平、更には、森下亀太郎らは普通選挙の実現に尽力し石黒・森下らは大正8(1919)年に中央公会堂で開催された普通選挙期成関西労働連盟の演説会のあとデモ行進の先頭に立ったという。

普選運動だけでなく、弁護士たちは治安維持法に対しては草案が発表された当初からその危険性を指摘して反対の意思を表明した。「治安維持法案は、既定の刑罰法規と扞格齟齬し其運用上弊害大……」(大正14年日本弁護士協会決議)と声を大にして反対し、大阪の弁護士会でも有志が反対の意思を表明していたいう(いずれも大弁百年史より)。

法廷風景と弁護士控室

当時の法廷は、裁判官、書記官、検事はすべて高いところにおり、低いところには弁護士と廷吏だけであった。

大正5年に赤煉瓦の大阪控訴院が落成したが、弁護士控室は忘れられており、急遽、地階の突き当たりの物置場を改造したところが控室になったようである。

[大弁会報・128・25,26より]