戦時下の弁護士、弁護士会

大陸の日中戦争の泥沼が続く一方、欧州での大戦開始に引き続き昭和16(1941)年米国・英国等に宣戦を布告して太平洋戦争が始まった。

国内では、昭和13(1938)年の国家総動員法の施行等戦時法制の整備に伴い、国民の全ての自由は極端に抑圧され、私生活の隅々まで国の統制・監視の下に置かれるという事態になった。

もちろん弁護士・弁護士会もこの例外ではなかった。早くも、例えば昭和14(1939)年大阪弁護士会の一部の会員の間から、東亜新秩序建設の大聖業を翼賛する趣旨をもつ大阪弁護士協会の設立が発案、設立されていたのである。

又、昭和15(1940)年は紀元2600年に該るとして全国的に祝賀行事が行われたが、日本弁護士協会も記念行事を行っている上、更に2600年挙祝全国弁護士大会も開催されこの大会には全国から700人が出席したということである。

東弁と一弁との分裂に端を発し、日本弁護士協会と帝国弁護士会という2つの全国組織の間で対立が続く中で、弁護士会の全国統一組織の結成の努力は続けられていた。そして昭和14(1939)年大日本弁護士連合会が設立されたが、これは各弁護士会が会員であり各個人は除外されていたし、又朝鮮等は除外されたことに加え、前記2つの組織の対立の存在故に統一組織としては不十分なものであった。このため昭和17(1942)年には同会を中心に更に全国的な組織を結成しようという動きがみられたが実現せず、結局昭和19(1944)年翼賛的な社会の動向を組み入れた形での大日本弁護士報国会が設立された。それまでの自立的な努力は実を結ばず、政府と時代の強力な後押しで、いうなれば他律的に全国組織が完成したのである。

全体としての弁護士・弁護士会は強力な国家主義体制の下に組み込まれ、方向としては戦争協力、報国の名の下に活動していた。しかし、当初は例えば日本弁護士協会が「国家総動員法」を憲法違反として反対の意見を表明したり、あるいは国家保安法案に対して、刑事手続を軽視したり検察官等の職権濫用を正当化するなどの理由で反対したりしていた。又、昭和17(1942)年の裁判所構成法戦時特例等戦時立法に関しては日本弁護士協会と帝国弁護士協会双方から強い反対意見が出された。

昭和13(1938)年ごろからは物資の移動と物資の価格に対する各種の統制が強化され、勅令や法律で国民生活をがんじがらめにしていた。国民はこのような統制の中で窮乏生活を強いられていたが、弁護士の生活面からいえば刑事事件としての統制法違反被告事件も多く、民事事件の激減にとまどう弁護士の収入を補っていたともいわれている。

戦時下における弁護士の仕事の大半はこのような統制法違反事件か国家総動員法違反事件だったということで、民事事件はできる限り調停で解決するように、という政府の動向などから激減し、食料事情もあって田舎へ転居した弁護士もいた、ということである。