2018.11.20 UP
組織活性化・ホームページ共同企画
THE座談会! 法曹生活50年を超えて
※本座談会記事は、平成29年度組織活性化委員会とホームページ委員会の共催で行われ、友新会ホームページ(会員専用ページ)に掲載されましたが、たいへん好評であり、若干の加筆修正を加え、本誌及び友新会ホームページ(一般ページ)に掲載することになりました。
友新会の中でも、50年以上のキャリアを有する大ベテランの先生方にお集まりいただき、司法研修所時代から、自身の若手法曹時代の苦労話、果ては今後の法律事務所の方向性に至るまで、大いに語り合っていただきました。
○日時 平成29年9月27日(水)15:00~17:30
○場所 ホテルイルグランデ梅田
【座談会参加者】<敬称略>
- ○久田原昭夫(10期)
- ○阪口春男(10期)
- ○高橋金次郎(13期)
- ○林田崇(15期)
- ○細川喜信(16期)
- ○高木伸夫(16期)
- ○水野武夫(20期)
- 司会
- 有田和生(62期)、角石紗恵子(64期)組織活性化委員会副委員長
- 参加者
- 向井太志(51期)平成29年度組織活性化委員会委員長
矢倉雄太(68期)同組織活性化委員会委員
山崎智義(53期)ホームページ委員会委員長
- 司会
- まず、友新会組織活性化委員会委員長から一言挨拶をお願いします。
- 向井
- 私は常々、先輩方から色んな話をしていただき、人生経験も含めて記録化して残していくことが大事だ、と感じていたのですが、これまで、このような企画はありませんでした。
若手法曹を巡る状況は、先生方の当時とは大きく異なっていますが、これまでのご苦労や若手法曹に対するエールなど、ざっくばらんにお話いただければと思います。今日はよろしくお願いたします。
■ 修習時代の思い出
- 司会
- まずは、修習時代についての思い出を教えてください。
- 阪口
- 僕らの時代は、司法試験に通った人数が251人しかおらず、司法試験に通ったというと、一目置かれるような資格でした。兄も弁護士だったこともあり、自分も弁護士になるつもりで、修習時代はほとんど勉強せず、楽しく遊んだ、という記憶しかないですね。大阪での実務修習中も、当時弁護士会副会長をされていた塩見先生などが、北新地に毎日連れて行ってくれ、飲み屋でもちやほやされて、よい時代でした。
- 高橋
- 私は裁判官として任官したのですが、修習中、二回試験があるということ自体知らないほど、のんびりと修習していましたよ。
- 林田
- 私のときの試験合格者は350人ほどでした。二回試験が怖いよ、という話は先輩から聞かされていましたが、なるようになるかと思っていたら、同期は全員合格できたという記憶があります。もっとも、修習時代のんびりしたことでその後、苦労したこともありました。
- 細川
- 私の期の合格者は380人ほどで、判事でも検事でも、手を挙げれば採用してくれたと思います。実務修習地は、広島でした。広島修習の修習生は、当時8人だったのですが、その中でも、のちに高裁長官や公取委の委員にもなった優秀な人もいれば、その後資格を失った者もおり、修習生の人数と成績は関係がなかったのだな、と今になって思います。
- 高木
- 司法試験受験時代の話になりますが、当時、司法試験の論文試験に合格すると、全国紙に名前が掲載されました。私が論文試験に合格したとき、親父から「(新聞に)名前が載っているぞ」と言われて、合格したという感動がひとしおでした。実務修習先は京都でした。修習中、検事の道をすすめられましたが、組織の中で生きるのが苦手だと自覚していたため、初めから弁護士になるつもりでした。このころ、大卒初任給が1万2000円くらいだったのですが、当時の修習生は3万5000円ほどもらっていました。
- 司会
- 細川先生と高木先生は同期にあたるのですよね。このころから面識はあったのでしょうか。
- 高木
- 実は、細川先生とは口述試験のときに泊まった旅館が同じで、このころから親友です。試験前、私は「この人は落ちる」と思っていたのですが、ふたを開けたら細川先生も受かっていました(笑)。
- 水野
- 20期は合格者が500人くらいでした。実務修習地での京都には、25人が配属されていたのですが、人数的にはちょうどよかったと思います。指導担当からは、実務修習期間中、大事にしていただきました。
2年間の修習で、弁護士として実務についていけるという点では、司法修習というのは、教育機関としてとてもしっかりしていたのだな、と強く感じます。
- 司会
- 水野先生は、司法試験合格前、国家公務員として勤務されていたのですよね。そのときのお給料と比べて、修習時代の給与はどのようなものでしたか。
- 水野
- 公務員当時の初任給は1万6000~7000円くらいだったのですが、修習生の給料は2万円くらいで、国家公務員の3年目よりちょっとよいくらいの給与だったという記憶があります。
- 司会
- 現在の修習生の状況について、どのように見ていらっしゃいますか。
- 阪口
- 修習生の給料が少ないなりにも復活しましたが、ここ数年の給料がなかった時代には、思うように人材が確保できませんでした。あれは失敗だったと思いますよ。ロースクールの先生も、来る人が変わってきたと言っていた。やっぱり修習にも給料が必要だと感じます。
- 水野
- 僕らの若い頃は、公務員試験と司法試験に受かれば司法試験の方に行った。今は逆らしい。司法に優秀な人が来てくれないと、日本の将来が心配だ。
- 林田
- 戦前は、行政と司法に受かれば行政を選んだ人が多かったそうなので、このころに戻りつつあるということですね。
- 高木
- イソ弁の就職口もないとマスコミに書かれたら、優秀な人は来ないよね。
■ 若手時代
- 司会
- 先生方が修習を終え、実務に就いたばかりの若手法曹であった時代に、印象に残っていることをお教えていただけますか。
- 阪口
- 若手のころ、ボスに起案を任せられ、自分としてはかなり満足のいく書面を作成したのです。しかし、ボスに「君、こんな文章を書いていたら、将来大成せぇへんで。もっと、論理的に書かな」と注意され、とてもショックを受けました。そこで、朝日新聞の論説の書き写しを1年間、1日も休まずに行いました。朝日新聞を選んだのは、他の新聞と比較して一番論理的に書いていると感じたためです。そうすると、複数の顧問弁護士を持つ顧問先が、私の書面を見て「君、こんな書面書いてくれるんやったら、先生に任せるわ」と言われ、その会社とは今も顧問契約が続いています。若い人も、努力しないといけない。努力が不可欠だと思いますね。
- 久田原
- 私が最初に勤務した法律事務所のボスは、裁判官経験も若手期間はあったと聞いていますが、大学の教授時代(終戦時は国立高専の校長をしておられたところ、退職により弁護士になられたが)が長く、弁護士業務とともに大学で手形法等を教えられ、当時すでに大学の学長をされ、その後理事長をしているなど、当時としては少々特殊な経歴の方でしたが、そのボスからは「書式を見るな、頼るな」としょっちゅう言われていました。ボスは、会社の定款も一から作れと言われ、私は現在でも定款などは一から作成するよう心がけています。(書式の活用は良い面もなしとしませんが、)今は書式が氾濫し、法律の素人でも形式的なものはできるのですが、それはとても危険なことだと思っています。
- 林田
- 私は、書式を参考にすることはよいと思います。ただ、参考にしたうえで、目の前の問題にあうかどうかを考える必要がありますが。
- 阪口
- 人間の注意力には限界があるので、書式を利用することは有益だと思う。
- 久田原
- 昔、渉外事務所では、外国に留学していた人の目的の一つに、その国の書式一式を持って帰ることがありました。この書式集が、事務所の資産になっていたようです。
- 細川
- 最近は、法律相談前に、ネット検索してある程度の回答を予想して来られることが増えてきたけれど、弁護士も出来合いのQ&Aに頼るのはよくないですよね。
- 高橋
- 事実関係というのは、当事者が一番よく知っている。弁護士は要件事実を勉強しているから、事実をこれにあわせようとする。そうすると、自然と事実関係が要件事実に引っ張られてしまって、事実と異なるようになってしまう。そうなってしまうとよくない、ということは修習時代にもよく話題に出ていました。
- 高木
- 私の師匠は、文章に対するこだわりが強く、名文を書く弁護士でした。師匠は、「人が3~5枚書いてきたら、倍書く」ともおっしゃっていた。
そこで、私は判例時報を隅から隅まで、自分が取り扱わない行政事件も含めて読むことにして、法律文書の独特のルールを学びました。私は、町医者の中の名医になるよう精進してきたつもりです。精一杯のことはやった、ということが一つの美を生んでくると思っています。私は、最近でも午前10時から午後8時まで書斎にこもって準備書面を書くなどしており、こだわりを持って書面を作成するよう意識しています。その結果、イソ弁の文章も、私のこだわりに応じて結構直しています。AIによって最初になくなるのは士業だ、と言われていますが、弁護士は創造的な仕事だと感じています。生の事実(証拠に裏付けられた事実)の上に、作り上げていく部分が存在している以上、クリエイティブな部分があり、事実の聞き手の能力により大きく左右されるものだと思います。AIがいくら発展しても弁護士業が必要なくなるとは考えません。
- 細川
- 阪口先生も言われていましたが、かつては世間が若手法曹を大事にしてくれたという印象が強い。また、世間が弁護士に飢えている、弁護士を歓迎しているという雰囲気でした。イソ弁時代でも、まだ経験もないのに、顧問になって欲しいと言われたりしました。また、その顧問先がどんどん規模が拡大し、東証一部上場企業となるなど、そういうわくわく感もありましたね。
- 高橋
- 私は昭和36年に判事補に任官しました。初任地の奈良で合議の左陪席と少年事件を担当しました。ただ、少年事件なんて何もわからないから、古参の主任書記官に聞きながらやっていました。書記官との飲み会のとき、主任書記官が酔っ払って私に、「判事さん」と言うので「私は判事じゃない、判事補だ。」って言ったのです。そうすると、その書記官は、「前にいた若手の判事補の人で、私らが判事さん判事さんと言ったらいい気になって、自分が偉いように思い込んでいる馬鹿がいたんですよ。」と言うんですね。そのときに、やっぱり偉そうぶっちゃいかんなぁと、書記官から苦言を呈されて気付きましたね。
■ 印象深い事件
- 司会
- 長年の法曹生活の中でも、特に印象深い事件について、教えてください。
- 久田原
- 私にとっては、思い出に残る事件が1件あります。それは、テレビによる人権侵害事件です。昭和34年か35年ころに、ある教科書制作会社の役員の奥様が、精神障害があると思われる隣人男性に殺害されたという刑事事件がありました。その後、外形的にはこの事件と同じ内容なのですが、この役員が犯人を教唆して、奥さんを殺し、最後はその役員男性が逮捕されるというテレビドラマが放映されました。ドラマの中では被害者の名前は実名、その男性の名前も山と川を違えた程度の変更で、この放送によって実際にあった事件をすぐ容易に推測される構成であったうえ、「資料は警察庁、警視庁から提供され、事実に基づいて構成されたものです」というような字幕が大きく表示されていました。
この放送のあった翌日、会社の取引先から「お宅の役員が捕まったそうだが」との問い合わせがあり、役員の子供が学校でいじめられました。これは明らかに人権侵害だということで、私からテレビ局に放送に至った経緯、スポンサー、テレビ局の関与等の状況を調べるため資料の要求をしたところ、相当程度の資料の提供があり、訴訟をすることになりました。他方、法務局人権擁護の部門にも申立てをしたところ、ちょうど法務局もマスコミによる人権侵害に興味を持っていたため積極的に本件の調査を開始し、当方が本訴を提起した翌日に関係テレビ会社へ人権侵害であるとの勧告をしてくれ、大きく報道されたのです。
この事案では、共同不法行為の考え方や放送に至るまでのスポンサーや、各テレビ会社の関与の仕方など、第三者には分かりにくいものがありましたが、それはそれとして、この事件の後、本件のようなことが起きないようテレビ局が配慮するようになり、現在でもその効果が見られています。といいますのは、事件もののドラマのテレビ放送の後で、「これはフィクションであり、登場する人物団体は実在するものではありません」という趣旨の字幕が付されているようになっているからです。弁護士の業務の社会に対する影響の深さを実感している次第です。
- 水野
- 私は登録初年度(昭和43年)に関わった刑事事件が印象深いです。控訴審の第1回公判期日に依頼者である被告人が、出頭できず、判決の期日がわからないまま、高裁の判決が確定してしまったという事案です。依頼者は執行猶予中だったのですが、上告をしていれば執行猶予期間が経過することは明らかな事案でした。そこで上訴権回復の申立を行ったのです。刑事訴訟法では、一審については被告人を召喚しなければいけないと規定し、控訴審はそれを包括的に準用している。控訴審には、被告人の出頭義務はない以上、召喚まではしなくても通知は必要だと主張したのです。この上訴権回復の申立てと、これに対する抗告も認められなかった。というのも、第2回以後の期日は被告人に通知しなくてよいという大審院の判例があり、大阪高裁はずっとそのやり方でやってきていたからなのです。しかし、諦めずに特別抗告をしました。すると翌年、最高裁からいきなり特別送達が届いた。何と、大法廷で上訴権の回復を認めるという決定だった(最大決昭44.10.1)。びっくりしました。その結果、依頼者は、上訴権の回復により、前刑の執行猶予期間を経過させることができました。この事件の経験から、おかしいことはおかしいと言い続ける、諦めたらあかんということを学びました。
- 高橋
- 判例変更のためには、代理人から無茶な主張がないといけないのであって、今までにないような無茶な申出をしてもらわないと、判例変更には至らない。今の上訴権の回復の話を伺うと、私なら無理だと判断したと思います。
- 細川
- そもそも控訴審の判決をひっくり返してもらわないといけないような事件も多い。上告の門戸は広げて欲しいですね。
■ 事務所経営について
- 司会
- 先生方はそれぞれ、事務所のボスとして経営をされており、経営者としても我々の大先輩となりますが、法律事務所の経営についてはどのようにお考えでしょうか。
- 阪口
- 事務所の経営は、1年2年単位でなく10年単位で動向を見る必要があります。これから司法界、弁護士の世界がどのようになるかというある程度の見通しを立てて、それに対応する事務所形態とは、と考える必要があると思います。僕らが弁護士になった頃は、一流の事務所であっても、イソ弁は1人か2人しかいなかった。今は特殊業務とか「あの人しかおらん」という事務所じゃない場合、事務所の規模というのは、重要要素だと思う。私の事務所は企業法務案件が多いのですが、東京の200人、300人いる事務所と比較すると、事務所規模的に出遅れていると感じます。また、人数以外にも、支店の少なさも問題です。大阪には、海外展開をする事務所が殆どありません。私の事務所と同じビルに入っている某東京の法律事務所の大阪支店は、支店開設当時の弁護士は3人しかいなかったが今はだいぶ増えています。また、弁護士は、そこで、企業における東南アジアへの進出サポートをしていると聞きました。大阪の事務所はそのようなことを行えておらず、業界動向についていけていないところがあると思うのです。
- 高木
- 私は、イソ弁が1人いるだけのいわゆる「町弁」です。私はボスが多く扱っていたことから、不動産案件に特化してこぢんまりとやっています。
高木会員が机に置いている「五省」
私が弁護士になったのは昭和39年だったのですが、その後の日本の高度経済成長に乗って、弁護士業も続けることができました。その後、バブルがはじけたりしましたが、私のような事務所は、それまでの私個人を信頼して顧客がついてきてくれたため、景気にあまり影響されずに、事務所を維持できました。ですので、事務所経営に対する危機感はそれほど有していません。
- 阪口
- 高木先生のような「何が起こってもあの先生や」という先生は何人もおられるが、その顧客をイソ弁が引き継げるかとなると難しい。僕らが考えているのは、「組織としての事務所」をどう維持するのかであり、先を見通して先行投資をしなければならないと考えています。私の事務所は数年前、中国に支店を出しました。支店開設の際には、事務所のみんなからは反対されたけど、反対を押し切って開設しました。これは「生き方」の問題ですね。
- 細川
- とはいえ、みんなが100人、200人規模の事務所を作れるわけじゃない。半数以上は「町弁」でやっていく必要があることからすれば、大規模事務所も小規模事務所もどちらも必要でしょう。その辺は病院と同じように考えればよいのではないかと考えています。
■ 弁護士業と「社会正義の実現」のバランス
- 司会
- 弁護士の仕事への取り組み方や心得のようなものについて、日頃、意識しておられる点をお教えいただけませんか。
- 細川
- 僕は、みんながやっていることの反対のことをすれば良いと常々言っている。僕の周りの人は、街にあふれる法律事務所の広告を見て、「弁護士は食っていけないみたいですね。」と言われて、軽蔑されているように見えます。弁護士は正義のために社会貢献をする唯一の仕事であり、そこが弁護士の輝けるポイントなのですから、そこを売り出してもらいたいと思う。そのときには、勇気をもってお金は要らないと言ってみてほしい。そうすると、社会正義のために働いている姿を見てくれているクライアントがお金を運んでくれると思う。
- 久田原
- それは先生の誠心誠意の行動に対して、認めてくれる顧客がいるからだと思う。通常の業務の中でも、報酬を請求したら「少なすぎる」と言って余分にくれる人もいます。でも、今の若い人たちはそのご指摘のこと自体は理解しているものの、現実はそれどころじゃないということではないでしょうか。弁護士も霞を食べて生活できるわけでもないですし。
- 水野
- 僕のボスは戦前からの弁護士ですが、ボスからは、昔はいかに弁護士が悲惨やったか、悔しい思いをしたかということをよく伺いました。戦前は弁護士といえば、「正業に就け」と言われていたそうですが、戦後は、弁護士は社会的にも尊敬を受ける仕事になりました。このように、弁護士の地位や信用が向上したのは、戦後の弁護士が様々なお金にならない仕事にも一生懸命取り組んできたからだと思っています。だから、その伝統を若い人にも継承して、これから先も、弁護士になりたいという優秀な人がたくさん出てきて欲しいと思う。基本的人権の擁護と社会正義の実現というのが使命だ、と法律に書いてある仕事なんて他にはない。最近、若手弁護士には、自分の就いた仕事は誇らしい仕事だという意識が薄くなってきている傾向があり、心配しています。これまでの先輩方が築き上げてくれた弁護士という仕事に対して、誇りを持ってもらいたいと思う。
- 阪口
- 水野さんが言われたことは大事で、弁護士のように社会的使命を全うする仕事はないのです。ただ、これを活かしつつ、安定した事務所経営との調和をどうするか、ということは難しい。僕らも、40年くらい前に中坊さんと一緒に消費者運動って言うのを一生懸命やっていました。
- 久田原
- 私達のころは、「弁護士の報酬は坊主のお布施」と言われていた。お布施であっても多いに越したことはないが、無理にとるものではない、と考えていました。
- 水野
- 僕のボス弁も「弁護士は請求書なんか書けない」と言って、「計算書」と書いて書類を渡していましたね。
■ 弁護士の職域拡大は可能か
- 司会
- 司法試験の合格者が増加した一因は、「日本の法化社会」による「弁護士の職域拡大」との点にあったようですが、先生方のご意見はいかがでしょうか。
- 高木
- 日本において法化社会って言うのはまだ無理ですよ。日本はまだ人間関係を大事にする傾向が強くあり、それを踏まえた弁護士の数でないと、弁護士が食っていけなくなる。
- 水野
- 若い頃は、都市銀行が債務者に対して競売をするとか、大企業が税務訴訟をするとか、全く考えられなかった。今は、名が通った大企業同士が裁判で決着を付けるという時代になった。また、大企業が平気で税務訴訟をして、何百億円という税金を取り戻したりしている。そういう点では、法化社会になったという面はありますね。
■ 座談会を終えて―若手のみなさんへ
- 司会
- 最後に先生方から一言いただけますか。
- 久田原
- これまで議論していて、今の若い方に向けた懇談会のニーズに応えることができたかな、というのは少し心もとないと思っています。
- 高橋
- 私は裁判所にいるころは、世間的には通用しない存在だと思っていました。しかし、定年後弁護士になり、バッジを付けると、世の中の人が尊敬してくれるような感じを受けました。だから、弁護士の存在は、社会的には非常に大事にされていると思います
- 細川
- 若手弁護士には、弁護士という職業はとても良い職業だと思いますし、自信を持って頂きたい、ということを伝えたいです。我々年寄りでも、色々相談あれば、また機会を設けてもらえれば、意見を言わせてもらいたいと思います。
- 林田
- 私は、法曹としての信念をどのような場で発揮できるのかということを考えるべきでだと考えます。弁護士会内の活動で、弁護士会のあり方に対して意見を言うことも大事ですし、依頼を受けている個々の事件の中でも、正義の実現を考える必要があります。私は、できるだけ後味の良い解決ができればと思い、仕事をしていますが、やはり全ての事件がそういう終わり方ではない。ただ、場合によっては最終処理の仕方によっては、後味の悪さを是正できるのであれば、それを実践すればよい。やはり良い気持ちで終わると健康にも良いからね。自信を持ってしっかりやれよという点は、細川先生に賛成ですね。
- 高木
- 私は今でも、初心を忘れないように、という意味で、弁護士登録したときにもらった身分証明書を肌身離さず持っています。また、「至誠に悖るなかりしか」から始まる海軍兵学校の五省を机の上に貼っています。さらにもう一つ、アメリカの詩人のサミュエル・ウルマンの青春という詩の「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる……」という一節も常に心に留めており、私の中ではこれらが三種の神器です。私に言わせると、社会正義という言葉ほど危ういことはない。私は「町弁」で、依頼者のために最善を尽くすことこそが正義であり、正義の実現だと思って今まで弁護士をやってきました。ですから、細川先生が仰るような社会正義も大事ですが、個々の事件に対して最善を尽くすことに弁護士としての美学があると考えています。また、個々の事件に対して最善を尽くすことで、依頼者の信頼も得られ、人間力も養われると思います。その結果として、将来的に「弁護士をやっていて良かったなあ」と言うことが見えてくるのではないでしょうか。
- 水野
- 若いころの楽しみの一つに、先輩方からたくさんお話を伺えたことがあります。午前10時の法廷が終わって裁判所の1階に降りてくると、控え室で先輩弁護士がたむろしていて「水野君、ちょっとこっちへ来いよ。」と声をかけて下さり、話をして下さいました。先輩弁護士がどういう生き方をしてきたかを見るのがとても楽しみでした。今は、僕らがこの先輩弁護士の立場になっている。だからと言って昔のように声をかけられるかというと、若い人はすぐに帰っちゃうし、こちらも若手弁護士の顔と名前もわからない。そこで、先輩を何人か呼んで話を聞く会があったらいいのでは、と思います。弁護士として50年やってきて、僕の人生には悔いなしです。僕は弁護士は天職やと思っています。若いころ、声を掛けてもらったときにはお誘いを断ったことがなかったのですが、結果としてそれが良かったと思います。いろんな機会が与えられれば、積極的にどんどんと出て行くべきでしょう。ぜひ、頑張って下さい。
- 林田
- 私はずっと1人で事務所を経営してきましたが、最近、ちょっと難しそうな事件については、若い人に頼んで共同でやってもらうようにしています。これが大変勉強の足しにもなるし、負担も軽くなるなどメリットが多く、このような共同関係を伸ばしていきたいと考えています。若い人たちは自分を売り込む方法を様々な方向で考えた方がいいと思います。そうすると、イソ弁ではないけれども、共同で事件処理をやってもらおうと言うことも出てきますからね。
- 司会
- 先生方には貴重なお話をいただきました。先生方が若手であった時代と現代とは環境も大きく異なりますが、事務所経営や起案など、本質は変わらないように感じました。また、若手法曹を案ずるお気持ちやいつでも相談に乗るよといった温かさをひしひしと感じました。
本日は長時間にわたり、ありがとうございました。
以上